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眠くなる・・・、ルソー、ブッダ、下駄 [日記]

寝れないから、 起きている。 

寝れないからと、眠りたいと思うことはない。眠れない

体のサインは、 そうなっている、と 認めるだけ。 

まだ、異常とか決めるような重い段階ではない。

寝なくて済むのなら、よほど 嬉しいのだが、 

何万年もの習慣なのだろう、この寝るってやつは。 

今日、明日でどうにかなるものじゃなない。

1時間以内に、・・・

やはり、来た。眠くなってきた、来なくていいのに。 

自分が単体だと感じる。そういう感じはわかりにくい

人が多いのではないか。こうなって思い返せば、

なにかと一緒の感覚の中で、無意識を泳いだというか、

そういう説明をしたい、気分はそうだ。 

そういうなにかと協力したのか、隣にいたのか、それは

想像もつかないが、それがあれば海の中でも息を

していた、そういうことらしい。自分をそういうものに

持っていかれるのは、快感がある。風にあおられて

空に舞うカイトに気持ちがあるなら、そんなものかも

しれない。ここから詩に切り替えるのに、楽だったこと

・・・・・。 

不思議だ、その記憶ははっきりしているのに、・・・。



知が戻っている。知を捨てた時に、これを半眠させた

のだろう。それからの尋常ではない経過もあったから、

その神経の影響や他の軋みや揺れも伝えられて、

知がそれを捕捉するのだろう。(補足ではない)

考えることを書くのも、なかなかすっきりしていい

ものだ。どうなるかわからない、その不安(詩)を楽しむ

ことはできないが、落ち着いて書ける、というものだ。 



寝よう、・・眠い。     : 1. 15  



風邪なのだろう、喉が少し痛い。風邪と言うと、体調が

悪いのだろう、という考えを調整しようと考えている。 

実際は、悪くなりかけているよ、という警戒信号で

これは注意できるほど体が健康であるということを

反対に知ることができる。風邪をひくうちは、体が

異変(病気とか)で重症になっていないことがわかる。

重症化すると、風邪もひいてられなくなるから。

なので、僕は風邪をしょっちゅうひいている。それで

あまり気にしない。症状が強ければ、市販の風邪薬

で対処する。以前は、よほど調子が悪く、5日も回復

しなければ医者を訪れたが、今はコロナで別な判断

をするだろう。あ、風邪は1か月のうちに半月は

ひいて、調子が良くないと思う。そのよくないと思うのを、

いい加減、改善しようと今日思ったのだ。

思えば、日常でこれをわざわざ書かなくてもいい、

と思ったことはかなりたくさんある。何かと一緒なら、

それに半強制でそれに関わることが多いので、

そちらを優先するのは自然だった。そして、今、

それを書かずに済むと、なるほど書けるうちに

できるだけ書いておけ、という勢いだったのだ、と

わかる。今なら、わかる。 

今は、これを面白い文に工夫して書く、ということ

もする必要がない、という感覚になった、(なって

しまったのか?) 脚色がふつうだったが、それが

自然と出てこないし、そういう気がないのだから、 

これが自然体なのだろう。あれはあれ、これは

これだ。 

昼に、「ジャン=ジャック=ルソー問題」(カッシーラ著)

が届いた。

ナポレオンは当時話題の「人間不平等起原論」

(J・J・ルソー)を読んだが、途中で読み進められ

なくて、放り出してしまったと告白しているが、文学

にも精通していた彼が放り出すくらいだから、よほど

趣味に合わないか、肌に合わなかったのだろう。僕も

うん十年前に同じく読んでみたが、肌合いがよくない

のと、理解しきれず同じく、放り出してしまった。後年、

晩年の作ならどうだ、と「孤独な散歩者の記録」を読もう

としたが、これも感覚が合わない。そして、またうん十年、

ルソーを読もうとしている。僕は嫌いでも、なかなか

わからないものは諦めない性質(たち)だ。知識欲が感情

を上回っているのだろう、今は感覚の違いさえ、こなそう

としているらしい。

この欲が贅沢な生活や自分の名前の誇示に向けられ

たら、僕は今の貧しい僕をどう見なすのだろう? 

僕の他の欠処がなければ、地位や資産に邁進して

いただろうから、オレの人生と交換してみなよ、とは

言わないだろう。また、理解できるとも思わないだろう。 

その逆に、そんな自分を理解したいとも思わないだろう。

そうしたら、またそれを逆手に取って、理解できたら、

すべては解決するのだろうか?と考えてみる。 

すると、理解しただけでは、邪悪な手段を必要と思う

やつは、それを利用するだろう、と。知的理解では

足りない、と。気持ちの理解の足し算がないと、

協力してうまく難局を乗り越えようなどの作業・事業は

できない、と。これは頭などの記憶を入れ替えても

機能しないだろう。情報が知識である間は、その

喜びも悲しみも無縁だ。ただ他人の日記を読むのと

変わりない。僕が本を途中にして、気になった知らない

ことは、すべて著者のやったように、またはそこから

想像できるように、追体験すべく、行動した。あいつに

できたのなら、オレにもできる式の乱暴な考え方だった

が、好き嫌いははじめから眼中になかった。今では、

その好き嫌いが強い人のプライドがまたうるさいことに

気づく。ガンコとかいうのは剛情で、意地とかいうのも

剛情と負けん気が重なったように思える。 

そういう年寄り根性は蹴飛ばしても無駄だ。認知症の

人に対するように、なんでも「ああ、そうですね」と言って、

相手を否定しないことだ。そういう我慢は悔しくて、悔し

がるほど若い、という意見もあるが、・・。

今は、それもそうだが、現実の場での人の感情を

感覚する機会が減っていて、品種改良で味のうすくなった

野菜でもないが、感情経験が少なくて、その対応が

訓練されていない、知的な思考操作でそういうものも

解決する傾向・向きがどんどん増えていくんじゃないか、

と。 

セックスレスやその反動、またはレンタル家族・レンタル

彼女とかの代替はそういう現われじゃないかと、勘ぐって

いるのだが、このコロナの自粛状況でそれも確認できない

環境になってしまった。もっとよくないかも、アメリカみたい

に逆に過剰なオープンがいいと、コロナ後に展開するの

かもしれない。今の処、その兆しも感じられないのは

自粛の所為だが・・。 

そのヒントになるのは告白の文化だろう。なぜか、告白

してから恋人になったり、結婚前提のおつき合いとか、

それがわかりやすくもあり、またハードルにもなっている。 

アメリカでは恋人とか友人とかの男女関係は微妙だ。

友人でもその気になれば、セックスもありで、セックスが

あれば恋人というわけではない。気に入った相手なら、

ある程度自由に交歓するのがふつうだからだ。 

文化だから、ことの是非はないが、その行動について

はどの文化でも好悪・便利不便・それなりに問題は

生じやすい。

すると、理解の前には欲望のコントロールが問題だ、

というテーマがありそうだ。欲望を失くすのは、生きる

のを否定することになる。ブッダはそこで「飢えてはいけ

ない」、と言い出した。飢えは求めるものが与えられなく

ても起こるが、求めても求めても得たくなることでも

起こる。この過剰を制限しろ、と言うのだが自分と

切り分けられるプライドはない。

それで強引に一度欲を知るために、飢えを経験させる

のを始めた、それを修行と称する。ブッダは6年のそれ

に耐えて、そこで悟ったと言われる。

自分とプライドをそれで切り分けたのだろうが、物質

ではないので、いつでも再生可能、復活するものだから、

それを見切ることをしたはずだ。あまりうまくいかなかった

ようだ。彼はその悟性をやはり知でコントロールした。

その知の根底以外を欲に煩わさせないようにして、

非常に正常な見識となる眼・耳を持った。それは研ぎ

澄まされ、見ることが、聴くことがそのまま見識(知識へ

の流れ)となっただろう。そういうタイプの人だった。

しかし、物事には功罪がつきもので、ブッダだからと言って

人間である以上、それから自由であるとはならない。

その修行の環境や悟りの感興が、通俗にわかりやすい

死を表現していたために、世間ではそういう概念に支配

された。生を究めるのに、死をもってして、死を究める

ことで生を支配できる、とした。それが悟りの効用と

いえるシステムなのだが、白の清潔さを求めるのに、

黒のペンキをかぶらなければならない、そうしてこそ、

と言うのだが、それを個人の力量にゆだねた。

それが最も大きなネックだった。人間の知も情も、

それが心にある量をもたらしている以上、それが

根を持たずに「無」の状態に保つのは、静のある、

おだやかな自然環境が適する。それは文明と

逆方向だ。ブッダが苦労して悟っても、それが

世界視野にならないのは、世界がそもそも矛盾の

層の積み重ね型の構造になっているからで、これ

はモグラの頭たたきに似て、どこかの頭(問題)

を叩いた(解決した)ら、必ずそれに関わるどこかの

頭が問題として突き出てくる、といったものだからだ。



3000年前のインドの風土は人口も少なく、余計な

概念も発達・複雑ではなかったので現代から比べよう

もないほど、環境に恵まれていたのかもしれない。

1本の大きな木の葉の静脈をつなげると、月に届く

くらいと考えたらしく、その距離も数えられる天文学

も越える単位(億、兆、京、・・・、不可思議、・・・)

をつくったらしいが、環境破壊を知ってか知らずか、

年に一人、木を5本植えることを奨励したという。

それでもブッダは正覚者が増えれば自然に解決する、と

考えたのだろうか。大乗仏教の概念仏教が興隆して

世界に思想として広まり、不滅?とはなったが、肝心

の悟りはどこかに飛んで行ってしまって、お話ばかり

が飛び交っている。この話もそのひとつかもしれない。

仏教に理想を見る人はそう思うだろう。

これはなんとも、・・・なんとも言えない、・・話だからだ。

笑いたいが、笑えない。西郷隆盛が川を流れる下駄に

話しかけたり、僕の同僚だった営業マンが九州出身で、

やはり、公園で猫に営業したりとか、鎌倉時代の

明恵上人が島に手紙を書いた話とかに、深く関係

するが、もう知的なものはぶっ飛んでしまっている。

もちろん噂のオカルトも超能力も超常現象とかも

まったく無縁な話だ。自分が経験しなくては納得

しないだろうし、簡単に納得してはいけない話だ。



こんな面倒なことをしようとして、していたんだ、

僕は。フーンと、検めて振り返る、風が強くなって

きた午后だ。 

よく晴れているし、洗濯物もよく飛ぶだろう!?

知はなにかを意図する。それが動き方だ。それ

以外に例外はない。だから、僕らはどういう意図

か計画か、ということを見出そうとする。そして、 

どんな歴史も独裁国家も、意図して動くが、その

意図が成功したようなものはいつも部分で、結局

はどんな意図も失敗に終わる。人の手に余るもの

がいつも勝つ。

だから、見えない洗濯物が飛んでゆくんだろう、

な~に、冗談だ、洒落だ。誰かが言ったように

歴史に自浄作用があるとは思えない。それを

起こしたものが見えないから、それを歴史の上の

証拠に例えたのだろう。

例えば、僕は僕が何を言いたいのかわかるとは

思えない、それが当然のように思っている。

だから、マザーテレサ(の名言)も思考から言葉に

(思考に気をつけなさい、思考は言葉になるから、

・・以下同じに)、言葉から行動に、行動から習慣に、

習慣から性格に、性格からいつか運命に、という

意図の流れに気づいたのだろう。それは意識の

流れと言い換えてもいい。

皆、同じことをいろいろに言う。
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新年あけまして、・・・ [日記]

新年は明けていない。師走にもなっていない。 

だからと言って、フェイクニュースを流そうというもの 

でもない。昨晩、友人にメールを送ったが、気管支の 

具合が今いちで、「アリはなぜ、ちゃんと~」を送って、 

茶を濁しておいた。 (最近感じるのは、この「お茶を

濁す」といった古い表現がよく顔を出すことだ。記憶の

逆行が始まっているのかもしれないと、昔の表現を

ふつうに平たい文に変えて書くのが今までだったが、 

時々煩わしいので、そのまま書く。) 

そのあと、1時間もしないで、降りてきた。今までこの世 

について何を書いて来たのか、その全体の意味が 

人生と同じように、巨大な羊羹となって(?)降りてきた。 

それはその理屈ではないが、物質ともいえる丸ごとの 

実質の感覚となって。 

(そう言えば、夏目漱石も甘いものに眼がなかった。)

この十年近く考えてきた、あれやこれやがなにをもって 

なされ、なにを見出さんがためにあちこちでさまざまな 

テーマが紡がれていたのかが、 氷解した。それには 

未知への意図がしっかりあった。そして、うすうすは 

感じていたが、まともに自意識はできなかったもの、

それがわかった。 

自分の心身の不調気味とか、関係なかった。 時と 

条件が満ちれば、それは勝手に降りてくるもののようだ。 

だが、この1,2年は新しい段階へ進みたいという要望は 

心にあって、たまにその文が見られた。なので、潮時 

なのかもしれない。 童話「青い鳥」のチルチルミチルの 

ミチル=満ちる、ではないが、心はいっ時、感興に満ちる。


新年あけまして、・・・ではないだろう。 



なんとなく知ってはいたけれど、靄が晴れて、明けまして 

新機軸こんにちわ、という処だろうか(笑)。


**
昨年、かなり早い新年を書いた。訪れた人たちを含めて、

全体への挨拶の代わりとした。今は、1.4。書いたのは

昨年、11月。
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毎日 なにをしていますか [日記]

毎日、なにをしているのか。  

自分にそんなことを尋ねる 日々だ。 

自分の仕事の目的は、そう、思い出せば 

・・ある。  あるね。  

虚無的というんだろう、 それが何だというのか。  

目的が二義的なものになってから、 ずいぶん、 

経つ。   経つよ。  

皮肉に構えるつもりは なかったのだが、

皮肉に  構えているんじゃないか、と。  

思うようになった。  なったよ。  

人のブログで  迷ったような書き方を  

見つけて  嬉しくなった。  

それは 自由な書き方に   見えたから。 

何を書いてもいい、 といっても  

制限のない 書き方は  本来できない。  

人間性を  あからさまに 問われるような  

書き方は  ふつう、 しないから。  

でも、 僕らが 自由であるからには  

ラフな書き方も  あっていいはず。  

だよ。   だよね。  

イオンモールへ  行っても、  それは 

ショッピングもあるが、  大事なのは  

暇を つぶすこと、だ。  

広い 食堂街の 会食テーブルでは  

好きに 過ごせる。   それで  

本を持っていくのだが、  10ページを 

読まずに  飽きてしまう。  

今日は  自主的に決めた 休日だが、  

何をしてもいいし、  なにもしなくてもいい。  

それは  やさしく  感じる、  

それくらいに  ぐうたらな 生活に  

慣れてしまった。  

時代は変わり、  なにかが  始まろうと 

している。  それがわかることと、  僕が 

始まるかどうかは  なにも 手を差し伸べ  

られていないし、  手を 指し伸ばしていない、  

そう思う。  それを  あまりにぴったりと  

隙間なく  僕は 受け止めている。  

それは、 最初に述べた  ”虚無的” ではない。 

もっと 冷めてはいるが、  ”印象的な、” だ。 

ポスターに 貼りついた  うすいセロハンのように  

僕はそれを  カバーして、 光をより  

反射させている ようだ。  

シャイン ニ  just  You   

光にまみれた  体の内部を 

闇が 皮膚のように  体中を  表面で

守っているようだ。  いずれ、 そんな説明に  

なってしまうのだが、 

これから   いろんな場面で  

それが訪れて   僕も気がつかないうちに  

心が  開かれて   それぞれに適応した、 

そんな光が  こぼれだすのだろう。  

いいね、  僕も  そういう人に 遭って、  

光に我を 忘れてみたい、というのは  

ハン、  浅はかな  考えだね。  

今は  時代とか、 その人とか、は 忘れ、

猫の  寝床の隣に

置いておこう。     そうじゃない、  

今は  あなたが  

ん、  あなたが  

そ、  あなたが   

大事なんだ。    

それこそ、 奢って言って、  真理だね。  

考えは 皮肉っても  気持ちは  

見透して    素晴らしい、 としか  

・ ・ ・ 言えない。 

フンファ(息もれ)、  言えないよ。  



なぜ僕なんかが  それを  えらそうに  

言ってるんだろう、 その言葉を。  

それが  君らに なにになるか、  

期待したくはないが    心、 その

胸が 高鳴ってしまう。  

ここで  詩的な言葉に  移行しても  

いいし、  そうする時もある。  

でも、  今は  いいという 気がする。

 ・・ するよ。  

ポツン と、  見えない点が  あって  

それに呼応して  僕は  窓際の  

コーラを取り上げて  流し込む。  

プリティ天使、 という音楽が   踊る。  

僕は  なぜ、  それを知っているの?  

ヘブン ・・・   そういう  ・・・。 

なぜ、 それが  ・・・  あるの。  

 
イオンモールから  殺伐とした  

雰囲気を  抱えながら、  帰ろう。  

ゆるい坂を 舗装を  歩いて  

映画の建物  横切って  駐車場へ。 

もう暗くなった  その空は、 日本らしい

朱色の  きれいな夕焼けが   

20.12.14イオン座間で夕陽 (2).JPG


撮れた。  


僕の  日々に  僕のあこがれる  郷愁のような 

ものは ないのだろう。  それを  爪弾いても  

なにもならない だろう。  

それを  ないから ある、というものを  

(ないから) 逆に  生まれてしまうものを 

言ってはいけないの だろう。  

黙すことで  それが  種のように  

いつか  育てば、いい。  

好きに  成長すれば、 いいよ。


時を  忘れてしまう。  

うたた寝して  起きると、 朝と夕が  

すぐに  わからない。  

書いていて、  区切りで  夕飯に  

呼ばれる頃か、と。  そうじゃない、

もう 日が変わる頃。

休日らしい、  怠け者らしい  

小さな 新しさを  こぼしながらの  

毎日という、  

わからなくなり始めた、 

夢の中の  田舎のような生活。  

絨毯に 寝そべっていると  

空に  漂っているようだ。 

25分というのは  時間ではないらしい。

3,4分前に  時刻は「23:36」 だったから。  

今は「0:01」だから、  25分経った、というのは 

嘘だろう。  

哀しい 嘘だと思う。   僕の時間は  

どうしても僕のものだ。  それでも、  

僕は 誰に向かって  その哀しさを 

押しつけようというのか。  

暗い舞台で  仄かな照明の  

丸の中で  ショーをする  シンガー。  

哀しいシンガーよ、  

君の舞台は  君のものだ。  

なにかについてとか  

どんな演技や 笑顔で  

君は  君の夢を 見るのだろう。 


毎日、なにをしているのか。  

自分にそんなことを尋ねる 日々だ。 

しゃべりたいことばかり、  

書いてしまう、 そんな日々だ。  

ウェストポーチ、  路線、  感染、

9か月ぶりに 乗る  相鉄(相模鉄道)の 

たった 一駅(笑)。

Cr~y、 クラ~ イ!  

僕を叫ぶことを  させるな、

それを、 せよ。  

眼に 焼けついて  それを  

せよ。  

マグマが  起きてしまう。  

そうなれば、 ・・・・

そうなれば、   ・・・

ああ  なにが  起きるわけでは 

ないよ。  

ないよ。  

まだ、   

少し、   眠れ。  



しゃべるな、   しゃべるな、 

まだ、  少し。





**
休日に休日らしい気分を書いているつもりでも、

その裏で十分に緊張している僕が浮かび上がって

くることだ。交替で表に立つ選手がかわるような

ものだろうけれど、・・・・・・・・・・・・。

それでも、自分がまだ変わろうという気負いが

見えたりするのは、自分に対して手応えを感じる

ものだ。

透明な、それは見えるような気がする、そんな

くらいの創造を、また僕が創ろうとする、そんな

ことに気がつく。 

ベバピン、 スカイ、  スン、 me ~~

(終わろう、)、   、    、 ・・

終わろうよ、 今夜は。

                  21 - 22日。
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ただの ひとり事 [日記]

かみつれ、と聞いて知らなかった。

Wikipedia で「カモミール」のことだ、と。なるほど、

カモミールなら知っている。 ハーブでリンゴの

匂いに似た花の香りがする。

ハーブだから、雑草。 

雑草は好きだ。澄ましたところも、上品さもないが、

破れかぶれのもいれば、意外に可憐なのもいる。

しぶとい。生命力がある。死んだように見えても

息を吹き返す。一度は。 

または、次の年に復活したりする。根が残っていた

のだろうか? 

神連れ、と聞いても知らない。そんな言葉は

なかったように思う。Wikipedia でも花のカミツレ

しか出て来ない。 

僕の造語だとしたら、僕の考える意味はカラス

だろう。神はカラス天狗を従者にして、降臨する

とか、聞いたような・・・。 

カラスはよくわからない。頭がいいと言われるが、

なにをもって頭がいいのか、釈然とした説明には

お目にかかったことがない。

鳴き声は独特である。全部のカラスではないが、

島では「アイフォン、アイフォン」とアップル社の

回し者であるかのように鳴くのがいた。たまに

そう鳴くのではなく、四六時中「アイフォン」なのだ。

こちら座間でもふつうとは異なる音声で鳴くのが

いた。言葉にはしずらかったので、覚えていない。

九官鳥のように声の物まねができるらしいから、

本来どんな鳴き声も得意なのだろう。

それにやつらは、人を見る。様子を伺う。一昨日か、

珍しく窓の向こうの4,5mにカラスが電線に

留まっていた。普段、止まるような安定した場所

ではなく、車道の真上で電線の中心だったので、

揺れやすかった。が、きゃつは止まっていて、辺りを

見回している。そして、僕にも気づいている様子だった。

が、気にしていない振りか、落ち着いている。こちらに

注目するでもない。1分くらいつきあったが、見なく

なってからは、いつの間にか姿が消えていた。

そうしていなくなった電線を見ながら、先ほどの

カラスを思い出して、想像していると、どうもカラスに

愛情を感じている自分がいた。  

島では朝から夕方までカラスと出くわす。その所為

なのか、慣れて気持ちが向こうになついてしまったか。 

とてもカラス天狗には思えない。 

よく、いじめられたカラスはその人間の顔を覚えていて

仲間を連れて復讐するという。カラスに攻撃されて、

軽い(?)ケガを負ったという話を聞くが、今でも同じ

だろうか?  僕はカラスに接触されたので、その経験

から、恐れず、親しい感情を持つに至ったのだろう。

彼らには彼らのしきたりか、ルールのようなものがある

らしく、港の護岸でカラスとトンビがなにか魚を、死んで

いるのだろう、取り合いをしているように見えたことがある。

そのギャラリーがいて、それもカラスやトンビなのだが、

周りを囲んでいるだけで、取り合いには加わらない。

それを僕はカメラに収めたのだが、その時、上空から

トンビが一羽下りてきて、僕の頭を蹴っていった。と

言っても蹴り上げたのではなく、彼らとしてはふつうに

手加減したのだろうが、カラスよりデカイから、重い。

それで足の骨がコツンッと当たって、痛いほどではないが、

痛いと言いたいくらいだった。どうも写真を撮るような

場面ではなかったらしい。彼らの足の爪の強さと

いったら、本気なら頭に穴が開いて、出血しているところだ。

縄張りや儀式じみた行動があるのかもしれない。

島ではカラスもトンビも多いので、ある程度棲み分けを

しているような気がする。両方が群れているところを

車で通ったことがあるが、お互いに気にしないでそこら

を歩いている。よいお隣さん、という感じで。

島へ通うようになってわかったのは、魚は子育てをして

いるということだ。堤防の護岸から下を見下ろすと、

小魚が群れているが、不思議なことに対になって

佇んでいるのが、ほとんど。すると、そこへ大きなのが

やって来て小魚たちの間を縫って泳ぐ。好戦的な

人間としては、小魚を食しに来たのかと思ったが、

そうではなく、小魚も逃げもしないし、気にもしない。

その大きな魚は2匹で来ていたが、ある程度、観察が

すんだとみると、またいなくなった。彼らは親の魚の

類で、親かもしれないし、その仲間の世話係かもしれない。

ともかく、魚にはある意味、家族構成がある。それは

相模川でも見たし、島でも他にクサフグが小さなうちは

群れて川に潮の干潮で上ったり、下ったりするが、少し

大きくなると数匹で護岸に沿って、仲良く泳ぐ姿をよく

見かける。成長と構成に順序があるのを、伺わせる。


自然のほうがわかりやすいのかもしれない。人間の

文明はほぼ機械まかせなので、ちょうど車の運転は

できても電気系統が故障したりすると、まったく

一人では治せないのと一緒で、なにがどうなったのか、

わからない。

パソコンはこのところ、急に立ち上げると、たぶん、

レジストリのことだろう、そこを開こうとしているが

開くと、不具合が生じる、とかなんとかの表示が

出始めた。なんのことか、わからないし、そういう操作

もした覚えはない。パソコンはネットにつながりにくく

なったりが、急に起こって一度再起動したりするが、

ともかくそういう不安定さには慣れるほど、多い。

原因はわかったり、よりも、わからないまま治ったり

が多いのも特徴か。

最近でもっとも不思議なのはこの部屋の蛍光灯が

古くて、幽霊蛍光灯になったことだ。なんと、昼間に

点けようとしたら点かない。もう寿命か、と諦めていたら、

夕方にも点かず、が、すぐに点いた!なんで?

夜はまず点くが、昼間は不思議にスイッチを入れても

点灯しないのだ。接触不良でないのは明瞭で、夜は

点くのだから。人間のように必要な時に働くのだ。

ああ、文明の不安定さよ。というか、おかしい。

ただの接触不良ではないのだから。

お化け?   (笑える)


*  ブログで「おわり」と入れようとしたのは

  初めてだ、入れなかったが。
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できないことより、回復が先 [日記]

部屋の目の前のごみが片付かない。こう書くと秘かに嬉しいのだが、余人

には想像がつかないだろう。僕の心の現状と部屋の現実の状態がピッタリ

合っているからだ。それがはっきり見えている。ごみはゴミだが、実際には

区分けしてみなければ、どれを捨てていいかはわからない。この眼でしかと

見ていながら、簡単には決めかねる、これが面白い、うれしい。

そして、煩わしい。人は煩わしいほうが先に来るのだろうか。僕は嬉しい

ほうが先に来た。どちらでもいいではないか。

僕の今も不安定な全体が、それら部分がかなりそれぞれが広がって、

それぞれの垣根を乗り越えて、お互いに結び付きだしたので、全体が

見据えられるようになった。が、ごみと同じで分類が必要だ。その

きっかけもわかった。島で闇と隣り合っていた14日からのことだと知った。

28日に半自覚から、「なにも変わったことは起きていない、と思い込む」

を書いたが、それまでに2週間経っていたことになる。闇は深い。

心理的には闇だが、現実ではゴミだ。と言うよりもドロ沼という現状へ

の比喩のほうがいいだろう。心と意識の発生について沈思していて

いろいろな仮説が思い浮かんだが、そのヒントからもそこが原点らしい、

と見えた。

意識・知性・作物の栽培・所有から支配への面、同時に自己形成・

区分から細分化へ・道具から文明への面、その結果としての現在の

技術の細分化・専門の細分化と複雑化・不完全な知識を頼りにした

科学模倣によって利益追求の経済システムが膨張することで、

その場で結果が出るものに含まれない膨大な未知数の欠陥が、食料品・

医療品・日用品・土壌・河川・海洋(沿岸)・に微量から大量に蓄積

され、僕らは10年20年単位で深刻な病気に、神経に精神に障害が

出るように、例えば、アトピーとかさまざまなアレルギーになるよう

に組み込まれてしまっている。物事の細分化・複雑化はそれなりの

ルールの適用が必要とされるから、日常生活の照明の点灯から消灯

までシャッターを閉めてからとか開けてからとか、取るに足らない

ものにまで、僕らは微妙にその公式にしたものを自前で頭に築いて

いる。信号を渡るにも、自転車に気をつけるにも、その道路交通法の

一部が必ず、頭を過(よぎ)る。その微量なものが日々のストレスに

いつか過剰な加算になって、病気の発露を重くする。

一応、病理関係だけで説明したが、仕事の関係、人間関係、情報系、

僕らの生活の隅々にまでそれを認めることができる。そして、僕らは

そのほとんどを見ている。少しだけ、自分から切り離せないものだけ

を見るだけではなく、気にして、それが尋常でなければそれを遺棄し、

離れる行動を起こすが、別に行動を起こす必要を特に感じなければ、

事態はうまくいくので心配することはない、少なくとも自分の問題では

ないと、つまりは現実を見ない。人生来の楽天さがそれを助長する。

自分は運転がうまい、と自然に思っている、あれだ。70-80%の

米国人はそう答える。交通事故率を鑑みるとあり得ない数字だそうだ。

(「シャドウシンドローム」より:文は記憶頼り)

僕らの破滅への道はかなり自然数で表現できるということらしい。破滅

はいつの時代でも未知数として予言されている。知性は滅亡が好きで、

過去からの結果だけのデータで概知の結果を作り出す。そこに希望が

あるわけでも、絶望があるわけでもないが、それで騒ぐのは人間の志向

がもともとそれを好むからだ。競馬の馬券を当たる前から当たると

思って、買うようなものだ。外れるとわかっている馬券を誰が買うだろう。

未来予測はかなり当たる。のではなく、おおまかに当たる。誰かが当てる

が誰が当てるかは、いつもわからない。科学的な推測は社会の動向を

併せれば、未知の部分を除けば、それなりに正しいからだ。これもその

担当者の世界への感受性が基本、ものを言う。それでも大まかな結果

しかないのは、僕らが理解して知識とするよりも未知の要素の発生の

ほうが多いからだ。

ちょっと、待って。

何を話して、話すべきではない何かが見えない。

島で見た(?)闇は現実ではドロ沼に相対・相当する部分だ。上で

ちょっとかいつまんで書いた部分の全体だ。誰も見たがらないそれを

どう書くか、どう説明するかという前に”もうどうしようもないという

先入観念”をどう克服するかがなければならない。僕も書きたがらない

からだ。全体を知るにしても、仕事や病気や情報やさまざまな制度の

不備など、その一端の経験をしていないと、なかなかその説明から

危機感を持ち、それを克服するほどの理解に自分でつなげるのは困難だ。

自己嫌悪・自己批判は易しい、たやすい:-と思えるまで社会の中に

あって社会から立てる、つまり自分の中にあって自分から自立できれば

いいのだが。

そこからほんとうに対策を考えることができる。僕はもう少し、回復を

する必要がある。休憩が要る。このところ、毎日暇をみては寝ている。

この半世紀分を寝て取り返す勢いで眠気がやってくる。なにが

どうなっているかは、わかっているが書かない。回復が先だ。

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言い訳にしかならない事情 [日記]

「概知の新天地に迷い込んだ、それを探る」シリーズは今、頓挫している。

漢字の心の発生と臓器の心の発生という可能性を考えていて、シュメール

文明についても考えてみた。シュメールは紀元前7500年くらいか(?)

そこに始まり、前3500年の頃に都市文明を築いている。漢字の発生よりも

相当に古い。ここで心と意識が発生はズレていたのではないか、という疑問

が出た。その疑問の前に、そもそも心の発生を臓器や脳に直接尋ねてみても

意味がないのではないか?心が仮想であるなら、例えば、痛みが神経に生じた

としても、神経組織を取り出して、これが「痛み」だとは言えない。かゆみ

もさわやかさも神経が伝えるなら、神経は伝える器官以外ではない。(厳密に

はそう言えないが)

だから、臓器から発生したという答えを得ても、それは心の発生の真の

解決にはならない。心が生じたきっかけ・事件などの動機があるはずだ。

痛みにしてもそれを心地よさではなく、「痛み」とした理由があるはずだ。

そう考えるなら、心の発生にも理由があるはずだ。

そうすると、初めから考えたのはそれらの研究の論や本などを読んで、

それをどう考え、どうまとめるかというアプローチは崩れることになる。

なぜなら、今述べた視点ので書かれた本は、今のところ、見ていないから、

それは「まだ誰も考えていない」からだ。

シュメール文明がどういう意図で作られたかという、新しい視点で考える

必要がある。そこまで根源的な問題になるとは思わなかったが、どうも

まったく新しい学問をつくる勢いでないと、今後の進展は望めないのでは

ないか、という地点に来ている気がする。

心と意識の分かれた発生の可能性ということも併せて考えると、どうも

出発点に立っただけということのようだ。

来年2月からエジプトやトルコなどに旅程を立てている。現地での視察が

少しは役に立つかもしれないが、その間に書かれた心の発生についての本が

なぜ中途半端か、疑わしいか、ということも少しは説明したいと思っている。

それにしても、もう少し感触を確かなものにしておきたいので、この

シリーズはしばらくお休みする。番外編は、気まぐれに登場するかも

しれない。  では
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ルーシーその後、なんだかなぁ [日記]

 :ルーシー、その後:

野良猫ルーシーは警戒心の強い猫だった。女子供以外では、怖いくらいの猫なで声

を使えたが、捕まることはなかった。網だったら捕まるだろうが、その後、飼えない。

うちのが猫アレルギー気味?だから。

あれから見ない。この暖かさなら、駐車場の車の脇でひなたぼっこをして、寝そべって

いるのだが・・。

これまで葬った動物は犬猫のほか、鴨とタヌキがある。夜のタヌキは対向車の2t

トラックにはねられて、ゴムボールのように弾んだので、はじめ犬かと思ったが、

野生の筋肉抜群のタヌキだった。

ルーシーは画像に納めていない。1枚だけ撮ったのがあるが、これはよくわからない

ので撮り直しをするつもりだった。最初で最後の画像になったのかもしれない。

ML_SH3L0022 (480x640).jpg



< なんだかなぁ >


なにか しゃべらなくては いけないのだろうか

なにか 書かなくては  いけないのだろうか

そういう ブログなのだから  あたりまえではないか

そういう 僕なのだから  どうでもいいのではないか

と 思ったりする

むしろ  書くネタを 無視しているのは

どうしてか  自分に 尋ねたい

きょうの 日曜日は  いつもは頼まない

野菜のピザを  注文した

日曜と 僕の休日が 重なるのは  84日ぶり

2か月と23日もかかるんだ  驚き 桃の木

ON The  Street

名前

さあ 書きましょう 鉛筆を 持って

<すべては よくなる  late for >   

そういうセリフは  歌詞に よくあう

それを 聴きたい人は  大勢 いるだろう

和音は はじめから  協和するし

心地悪いメロディは  はじめから 避けられているだろう

その時に その時の  快い テンポ、メロが  ある

On  THE note

名前

さ 書きましょう  ペンシルケースを  振り回さないで

授業 風景

ナイス  I do

Break  Bird  End 

夜の 黒い鉄橋を  うしろにして

車の フロントライトが  走り過ぎる

round round turn  around

洗面所の 蛇口を ひねる

水が出るとは  考えた

お湯になる 蛇口じゃない と 

チェックも入れて  顔を 洗う

休日は  楽しもうよ  それはいい

僕は  十分に 楽しい

わざわざ 楽しむために  なにかしなくては

いけないのだろうか

Smoke down  

真面目さ

お笑しさ

わざわざ どこかへ 出かけなくては

いけないのだろうか

名前  銘柄  ブランド

花模様

Perfect という  誘惑

これは なんという ライト(照明) 

蛍光灯は  20分で  点灯時の消費電力と

同じ とか  蛍光灯ではないのに

階段で  次に降りてくるまで 20分かかるだろうか

と 頭を  通り過ぎる

これは なんという ライト

考えたことなかったな 

意味のないことを  考えないで

息をするなんて  できるのだろうか

なにか  新しいこととか  特別でないと

それは もったいないとか  言われるような

ことなんだろうか

人は  なにか  主張したりする ことに

飽きたり しないのだろうか

Vinegar  

バジリコ酢

安い 外食レストは やめようと 思うんだが

体に悪いと  証明されても

他の食べ物だけで  満足できないだろう

若くもないし  煙草も 酒も やらないから

生き続けてこれた  だけ かもしれないし

花粉症になるのも  まだのようだし

鼻をかむだけで  人の症状は わからない

道路向かいの  家の暗さに  窓だけが

四角く 明るい 灯りで

そこに 誰が住んでいて  どんな顔を

しているのか と そんなことも 知らない

Else

空き地

free  という スペースは

僕には  どこにもなかった  どこにも

それは  願望ではなかったのか

freeに 実際  なってみると

自由になりたいと は  思わない

それは  暇である象徴で  退屈と

ベンチで 将棋を 指していたようなもの

今さら  目的を 持ち出しても

なんだかなぁ  という具合で

目標の スキル、スケールを 広げても

なんだかなぁ  という具合で


桜祭りで  屋台が並んでいたが

眺めても  足を向けることはなかった

なんだかなぁ

ひとりで 行くような場所じゃ  ないだろう

Skin  learning  

・・ Ever  

そうだよなぁ  シンプルって

いい言葉 だ よなぁ

僕は  隠している言葉を  言う気はないみたいだ

本音 というものなのだろうか

本人も  どう捉えていいのか

よくわかららない点が  あるが

その言葉が  煮詰まることは ないだろう 

話していると

真面目になってくる

なんだか

休日じゃ  なくなってくるから

Possession   

めまい  幻惑

ちょうど 最終電車に  間に合ったのに

もう電車の来ない駅に  なにか

自分は 残りたかった  と思うのは

無人になる駅に  なにを

期待するからだろう

よかったのに  残されたら  どうするんだろう

夜通し 歩くような 距離  だったろうか

それを  味わっても よかったと

思う 自分が  いる

なんだかなぁ

自分って  なんだろう

なんか

解き放たれて いる    

Long  live  だよなぁ

なんで  明日  起きるんかなぁ

星を 数えて

テントで  月見をして

まだ  できるよなぁ

不思議

山屋に もどるのを  遅らせることはないのだ

そう考えられる  それは

やはり  幸福の ひとつの形だよね

そう思えるんだが

その他にも  たくさんありそうで

興奮してくる



そうだ

まず 珈琲を 沸かそう

あの 岩の上で

困るね

想像するだけで  体が

勝手に  熱くなる



なんだかなぁ

まったく

・・・・・・・・・・


なんだかなぁ




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この世をマウントするのは君だ [日記]

クッキーは ワイドだろうか

勇気は  サイケデリックだろうか

僕は チャンス・オーダー しているだろうか

パタパタと 靴を 交互に叩いて

なんの 真似ごとだろうか

色即是空  金魚お祭り  開店休業


とても  集中できまへん

彼と話した時間は ・・・ えーっ 8時過ぎから

ちょっと店を移動したから ・・・ 4時間か。

死にそうだと 弱音を吐く人と 話すのは

こちらも つい 力が入ってしまう。 う う 。

さすがに 疲れる、日付も変わって しまった。

珍しく こちらが話したいことは 話せた。

あと30年は 生きられそうだと、冗談だろうが

感謝されても  少しも喜べないのは

なぜだろう。  彼は30も年下で 9年近くの

付き合いをしているが  よくわからない。

プライバシーに触れずに  障害について  それが

軽かろうと

語るのは 難しい。

進歩がないわけではなく  理解も進むが  まるで

油断ができない。  そこが 障害たる

所以(ユエン)たる、・・・。

彼に言ったことを  自分に 贈る、

先を考えるのは 無駄なこと

今が できなくて やってもいなくて

他の 悩みに 逃げ込んでも なんもならん

なんもならんよ、  今できることを しなければ。

言ってる 自分の耳が 痛いのだな。

ともかく 君ができなくて 今の職場を辞められても

僕も 困るので  その仕事を 手伝うよ。

一緒に やって行くうちに  失敗して

そこを反省するだろう、それは次の やり方を変えるし

良く変えるだろう。 つまり、失敗を繰り返して

よく 工夫をくり返せば、 それだけ成功しやすくなる、近づく。

君は ともかく 失敗を恐れて 完全にやろうとして

神経が 疲れてしまうことを している

最初の失敗は  最後の成功に 最初の貢献をしているのは

確実なのだから  どんどん 失敗して!

なにか言われても そうでした、とか ちょっと忘れていて とか

流して  流して  いつか 見返せるのだから。

ブロウクン チェーン  心の鎖を 解き放って!

っていうことだから。


彼が 活躍を強いられるのは  今よりも

10年後 20年後 だろう。

その時、年金制度が壊れて までで

そこからを 話さなかったが、

その20年後に 彼の高齢時代が 来たら

医療のナノ技術の発達で  なかなか

病気にもなれない  死ねもしない 時代が来る

人生100年(歳)時代とか 言われて

君は どこで 働けるだろうか?

どう社会が 変化するかも読めない

健康と 体力  生きる動機が必要だ

それは 筋肉というやる気を支える  運動が必須になる。

僕は そんな先まで 生きていない、寿命だ。

これで 先を考えるのは ヤメだ。 無駄だから。

必要ないから。  

このバトンを 渡そう。

君が この世を マウントするのに必要な  3000年の バトンだ

この 一年で  受け取ってくれ。

あとは 前々から 話してきたように  僕からは 

一切 連絡しない。

君は 君の運命の  切り替えを 行う

僕は  寿命時代を やらせてもらう。

なんだろう、 それは。 ちゃんと

考えたことは  なかったな。

猫の タイカのほうが 先に逝くな

オランウータン、忘れていたな  確認事項が

残っていたのを。

寿命どころではない  のだが、 そこはどうにもならん

ならん。


リーセント ターム

ゲームを セーブしよう

時代とともに

今できることも していないで

それを 語るのは  笑わせる

ハイ! マインド


もう 無理 

4時  寝る



アンギアーリの戦い (696x477).jpg


L・ダ・ヴィンチ アンギアーリの戦い イメージ模写
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明日、通夜へ [日記]

現在、親戚に不幸があって、人との約束も前後して、バタバタと落ち着かない状況で

書く予定のものに焦点が定まらない。なにせ、新しい感興に転換したばかりで

自分が自分自身に慣れていない時期なので、興奮ばかりが続いている。

でも、睡眠はふつうに取れるので、興奮の種類?が違うのか、よくわからんです。

勝手な推測では優位な状況と不利な・不幸じみた状況が重なると、こういうことに

なるのではないかと、この落ち着かない状況を感じている。

旧暦では節分から年が変るとかで、2月からは今までのような平穏な年にはならないの

ではないか、と。

そうすると、精神的には安定させないとバランスが取れない。今までは社会では平穏で

精神的に上下運動が激しかったので。今は外側からの攻勢が強い。

両方で平穏な人も多いのではないかと思うけれども、僕がどうのこうのしてなんとかなる

ことではないので、早めに状況を把握したい。

東京オリンピックになにか変化があるのであれば、今年のことだと何年か前から思っていた。

そうしたら、天皇の退位・交替がされるということで、なにかあると、根拠のないピンが来た。

それが自分には及ぶまい、というのは全然警戒していないことでもわかるが、いきなり

2,3ヶ月でむなしさが予想外の大転換をしてしまったので、驚いていたところへ1年も

断絶した知人との交際復活、縁の深い親戚の死、その上、大阪なおみの世界No.1ときたもの

で(笑)、試合は双方ともに感情も試合運びも起伏のある試合で、輪をかけて興奮冷めやらぬ

という事態になってしまった。いやいや。

ワタシ、中国人ないあるよ、日本人ネ。ナンノコッチャ。


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これまでの説明 [日記]

とてもとても長かった半世紀は、順を追っても語り尽くせないだろう。

子供の頃から貼りついていたむなしさを知らなかった(無自覚)。それでも夜に暗い道を

好んで徘徊する小学3年生は今でもいないだろう。

自我が形を取るまで、(19歳)そこで起こったこと、むなしさは現れたが、理解できない

様相だった。それを捨て、また拾い”死の理解”につながるまで20年。

それをまた大きなサークルで見るためにさらに続けて自我を捨てなければならなかったこと。

新しい自己を迎えることになり、さらに無意識に入るには、還暦を迎えなければなら

なかった。とても短く、長い50年だった。

昨年には方針転換を画したが、手探りで1年かかり、ブログ記事は昨年だけで

300を越えただろう。

常にむなしさとの闘いでもあった日常は、越えられないものだと思い続けていた。

まるで下がることのない土地の値段のような神話だった。これが本物かどうか、

まだ決定づけられないが、むなしさは初めて貼りついていない感覚を味わった。

50年、長くない、短くない。

今は忘れて、これからのブログを模索する。それは自然と心だから、少しややこしいが

動植物、それに関わる科学や化学、山や旅行、後は何だったか、島(五島列島)のこと

宇宙、博物学(重なるか)、フィールドワーク、日本語についてなど。

もしかすると、別のブログで扱っている歴史や政治・哲学・経済・建築・イノベイション

なども小さくは引っかかってくるかもしれない。

これでも足りないのだが、時間がこの先十分にあるわけではないので、これでも

多いのだろう、不本意だが。

説明になっていないのは、当然で、半世紀をまとめて説明などできないと、開き直る

しかない。

記事は始めがわかりにくくて、あとで転換してわかりやすくなったり、その反対だったり

するので、できれば最後まで眼を通してみてください。 とても短い説明ではありますが

これって、はじめに紹介する文だったのかな。(苦笑) 以上。




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