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出雲のきっかけ [気持ち]

2013年、上野に行った。う~ん。

この話か、まだその気分じゃない。書きながらどうにかその気になる

だろうか、と書いてみるが・・。

今ここにいるのに、頭に残したものについて書くのは、今がもったいない。

そういう気がいつもしているのだろう。一度書くチャンスを逃すと、そこに

戻ってくるのがむずかしい。今、生きている素材があるのに、どうして過去の

素材を気にしなくてはいけないのだろう、と思ってしまう。

ちょうど即興で曲を弾きたいのに、もう自分ではすでに知っている曲を弾こうと

するように、興味が殺(そ)がれる。

間違いなく、今生きている躍動をこの体に感じる。そうすると、伝えるのは

これでしょ?!となってしまう。で、それを伝えられない。そんなことを

くり返している。それでもそれは気にならない。間違いなく、これが最高だ

とわかるから。どうにかしろよ、と自分で自分に言うのだが、詩が生まれる時も

あれば、エッセイになったりもするが、こうしてだらだらと書いているだけに

なってしまうこともある。まったく、「どうにかしろよ!」である。


もういっそのこと

なにも言うのを やめよう

君が 僕が あなたが 彼が  彼女が  オットセイ?が

おっと そのせいじゃないんだっけ

もう なにも言わないで というのは

別れのシーンで よくあるセリフだろう

気まずい雰囲気に  どう対応しようかと

傍目にも 緊迫感が  漂う

ここにある  それに まつわる想いが・・

からんでいるようで  単純な想い・・

別れる必要はないのに

それが必要だと それは

どこからくるんだろうか?


うす暗さが 青紫に影を  落とす

ロンドンの 濃い霧のように

牧場では  土地が冷え切っていて

森から 温かい空気が 出てくると

朝日に 当たりながら  白い霧が

草原一面に 低くたれこめ  広がり 流れる

ラ ラ ラ ・ラ

鉄仮面の 鈍い 銀色の感情が  噛みつぶされて

なにかに  耐えようと・・

ル ルル ・ル


たぶん 僕らが生きているのは  こういうことを

共有すること

同じ虹を 見て  同じ流れ星を 見て

同じものに 出会って  同じ冠婚葬祭に 立ち会って

同じ 感慨、感動を  共有すること

それに 尽きる  それだけだ

僕は そんな気がしている

生きることが 次の命に つながってゆく

そういう生き方を  したいと


それはなにか  壮大な物語を  生むのではないかと

どうして そういう考え方が  できにくいのだろう

できにくくなって  しまったのだろう

僕ら人間の

もともとの 人間性という  偉大さが

いつから  失われつつあるのか


やはり そこへ行ってしまうのだろうか

気楽に やりたいが 今の世にあるのは

言葉ばかりの ゆとりとか  余裕とか ばかり

チンケだなぁ とどうしても 思ってしまうのだが・・



出雲大社へ行ったのは、偶然の仕業(しわざ)。

6年前、それまで縄文ということに何気に惹かれていて、その土器や教科書で見た

埴輪を見たい、と思っていた。う~ん。書くのが止まるなぁ。

(もう少しがんばって)それとは毛色が違ったが、上野で神社の大展覧とか

やっていて、ぶらりと他が気に入ればそれを観てもいい、と流し気分で上野公園

まで出かけた。大神社展はつまらなく、そこそこに出て来てしまった。

ところが1Fで常設展で縄文から江戸時代までの陶器や瓦が展示されていて、

教科書に載っていた国宝の埴輪もレプリカだろうか、あった。小喜びして撮影

禁止の撮影をしたのを記憶している。よい子の皆さんは真似をしないように。(笑)


それで満足したが、それで終わらなかった。売店に行って、記念品を買うつもり

が、ポスターに出会ってしまった。それが60年に一度という本殿遷座祭で、

平成の大遷宮という大改修工事のポスターだった。それも明日から!

大国主命(おおくにぬしのみこと)に招かれたなどと、固く考える必要はない。

この出会いに素直に従えばいい、という気持ちになる。こういうのには昔から

逆らってはいけないことになっている。

と、これがきっかけで小学生の時に学校の裏手にあった熊野神社の由来や

そもそもの出雲の民と大和民族の襲来との歴史をひも解くことになるので、

なにがきっかけになるかわからない。

そうして、2013年。島根県まで車で一人旅が始まった。 遠~い~よぉ。

つかみは、こんなところでよかろうかい。

いつかなるべく、近日中に、続きをと思います。
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もう寝るけれど、書き切れるか? [気持ち]

物理学で面白い話とか、出雲大社への旅とか、過去ものもあるけれど、書いておく話が

あっても、なかなかその気にならないのが悪い癖で、その場の自分にまかせる。明日の

自分はどういう気分なのかわからないので、書くのもその場で決まるというか、書いてみる

までは自分でも何を書くのかわからない、ということがほとんどだ。

そういう生活を5,6年していたので、月に10日の仕事をはじめても、それは習慣じみ

てしまっているようだ。

そんな生活になった理由を書いておくのは親切なのだが、とても長いストーリーになるので

腰が引けてしまう。


窓からは東の空が見えているが、うす曇り。それが西日の反射だろう、うすく赤色に

染まっている。次第に下が青くなり、赤い色はせり上がるのは、反対の空で西日が沈ん

でゆくからだろう。どうもジェット戦闘機らしいのがそこを通過しているらしく、

キラッと光るストロボライトが見える。ラヂオなんかあると雰囲気が出るんだが、今は

パソコンでネットを立ち上げればなんでも通信してしまうので、アナログは好きだが、

趣味のように買いに行くことはない。あるようでないようで、自分の欲しいものを意外

に買わないほうだ。

この世も、自然も、地球も、国家の集まりも、あまり知られない宇宙も、それぞれが

世界を形成しているのだけれども、それらを心の投影と見ることも世界とみなすのなら、

それらをまとめて僕はただ「世界」と言っている、言うことが多い。だから世界観も

そのなかに入ってしまう。

どうしてそう感じるかは、僕の経験次第だから。と言って、申し訳ないが、その経験を

くり返し語って来たので、芸能人や容疑者ではあるまいし、何度もそれを語るのは飽き

ている。

前々のブログから3年もやってきたので、ここではそこでは落としてきた話をある程度

きちんとまとめようとして話そうとして、立ち上げたソネットブログなので、そちらに

重点を置きたい。ただやはり、簡単な導入の説明は入るだろうけれど、不十分なものに

なるだろう。

なにか、たどたどしてしまっているなぁ。

でも、なにか言いたいことがあるわけではないので、表現しようという「気」がせり

上がって来ないし、珈琲を飲むには、もう寝る前だし、と。

なにか、ブログや本を読むときには面白かったり、特別な雰囲気を言葉にして味わい

たい、というのはわかるけれども どうも、そんな感じじゃない、今夜だ。

変れば変るもので、昨年の頃は毎日でも書いていたし、書くのに困るより先に発想が

やってきたので、一日に2,3の記事を書いて、全部を一度に発表は無理なので、

溜まってしかたがなかった。が、今はブログを二つ立ち上げたので、楽になった。

そして、今急に閃いたけれども、僕の想像で、仮説のようなものだけれど、愛を創造

する僕らというのは実在している、と。

でも、その他の愛も存在していてかまわないし、それはフィールドが広がって楽しい

ことだ。今までは僕の受けた(この発想について、今メールを友人に送るのに、1時間

は中断):-

何を書こうとしたか、忘れた。

でも、皆さん、僕の伝えたい気持ちはわかりますか?

言葉では伝わりにくい、その代わり、嘘でも書き方次第ではその人が勘ちがいして

くれる。気持ちと言うより、しあわせの波動のようなもの。ほんとうでも嘘でも、

信じたものの勝ちっていうところ、ありますよね。ほんとうに感じているなら書き方は

どうでもいいし、なるべく思ったように書こうとすれば、と思いますけど。

ここにある空気とか、波とか、振動とか、温度、そんなもの・・・。

今夜はここらへんで。

では、おやすみなさい。
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