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バーミヤンのあとは物理学、あとは哲学と感傷 [果ての話]

えー?と驚いたのは、ブログでミスっていたこと。


下書き保存したつもりが、昨晩は眠くて中断したので、ボケて公表してしまっていた。


ブログ開けたら、なんで?である。偶々、区切りまで書いたので、確かにギリギリ


公表した形でもいいと。仕方ない、続きを書こう。と言っても、まったく話題は


切り替わってしまう。一応、「1.」も載せておく。読んだ人は飛ばして。

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「今晩は若い知人が成長していたのに、少し驚いた。

バーミヤンで2時間半ほど話した。今まで同じ料理を頼んだことがないのに

同じ定食を注文した。これは相手と波長があっていると示す時に、出る行動

である。この8年で初めてとなれば、驚いてもいいだろう。

自分の考えた新しい考えも披露していた。これにも驚いて、「君の言うとおりだ」を

連発した。人が進んで、成長した姿に出会うと、まるで自分の世界が変ったように

感じる。でも、彼は仕事上で大変でアドバイスをもらいたいと、思っていたのだ。

成長する素直さが出て来て、自分の考えを述べるようになったら、ほとんどアドバイス

は必要ない。聞いたら、すべて前もって答えを得ようとする心配で、考え過ぎという

不安だった。やはり、アドバイスは必要ない。

人は失敗を恐れるあまり、未来の答えを現在に求めようとして、考えても仕方のない

答えの出す不可能を、考え出そうとする。

そういう心の問題はその場で答えを出せばいい、と。それだけだ。

その時までに自分の心や気持ちがどうなるかはわからない、いつでも、永遠に

わからないことだ、と。その時にその時の自分が答えを出すべきで、今の自分は

関係ないのだ。だから、つまらないことで悩む必要はない。


物理学の話はまったく出ない。彼には興味がないからだ。彼とは中国人による

中国史をやろう、ということで話が決まった。  」

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このブログでは科学をやろう、と書いてあるので、中国史などの歴史はやらない。


話すのはこれもたまたま手に入れた本で、「光と物質のふしぎな理論」で文庫本だったが、


単行本になった。という言い方はおかしいので言い変えると、文庫本は紛失したので、


図書館で借りたが、単行本だったということ。


量子電磁力学について書かれている。Quantum Electrodynamics で略してQEDと


している。QEDでは quod erat demonstrandum のラテン語で「証明終了」の意味で


こちらのほうが有名かもしれない。漫画の天才学生の探偵もので「QED-証明終了」


もあるが、関係ない。


本の全体では量子電磁力学をとても長くなるが、矢印を1万本も使うことで、勉強に


4,5年もかかる数学を省略して、誰でもそれで理論の理解に導くということらしい。


安心してもらいたい。そんな退屈な話に引きづり込もうということではない。


入り口で著者のR・ファインマン博士が言っていることの意味を新しく捉え直したい


だけだ。量子電磁力学も量子力学を基本にしているので、極微粒子の動きを確率的に


説明して示そうとした理論だ。はじめの理論はポール・ディラックが作ったのだが、


光と電子の補正を計算すると、無限大になり、理論の欠陥になってしまった。それを


解決したのが、著者のファインマンとジュリアン・シュウインガーと朝永振一郎の


三人だった。それは実験の結果とごくごく微妙な差で、有意な理論の間違いは見られ


ないというものだが、なんと量子電磁力学が生まれてから、50年もいろいろな範囲


のものを試し続けて来たというのだ、半世紀である。


これは科学者の誠意であり、正しさの追求でもあるのだが、嫌味な見方をすると、


量子力学が正確な答えが出せずに、確率である以上、常に実験と照らし合わせる必要が


あること、それはファインマンにも疑いがある、ということだ。この講演でも「なんとか


皆さんをおどろかして、「なるほどこの説はホンモノだ」と思っていただこうとの魂胆から


なのです」と言っている。とても奇異な感じ。それで50年も実験をする?という。


でも、僕はこの極微のミクロの世界で量子力学によって、化学全般、物質のさまざまな


性質を解明するという偉業を成し遂げた。それが確率によるというのは、なんとしても


物質の根源については正確な答えは出せない、ということではないかという結論に注目


してしまう。これが限界とは思わないが、科学(理論)での解明の淵というものに近づ


いたのではないか、と。


例えば、感情の数式化を考える人はこれまでもいたし、これからもやる人が出てくる


だろう。それで感情のあらゆる面とそれらの関係を数式で結びつけることは、たぶん


失敗するだろう。それで感情は「感じることから」出て来て数式に情が移るとは思え


ない。だが、その追及の過程で人のなんらかの心理システムを解明するような理論を


発見することは、あり得ることだと思う。鳥にはなれなかったが、人は飛行機を発明


して空を飛んだように(毎度同じ比喩で、申し訳ない)。そう言えば、化学実験好きの


少年がただで道路工事のコールターをもらって実験していたら、偶然、素晴らしいブルー


が現れて、とても美しいので、彼は切り替えが速かった。そのコールターから染料を


つくる会社をつくって、その社長になった。世界で売りさばいて、儲かったという話を


聞いたことがある。


ここでまた、話題が変る。:-


根源、というのはむなしさを通して感じられた。この世という自分の世界にはないが、


死の地帯と呼んだ、人がそれを仮想とも実在とも区別ができない世界になる。ある、とは


言えない。それでは自身の認識で語ることになる。ややこしいが、その感じられないが


感覚はするのは、むなしさとして感じることでもわかる。自己は防衛本能からそこには


入らないように厳しくそこに恐怖をつくり、自分(その本人)に強い恐怖を感じさせる


ように働く。


丸一日歩いても闇ばかりが続くのであれば、慣れない我々は一歩歩くのもつらく、一日など


とんでもない、と思う。これは眼をつぶって簡単に実験できる。闇を歩く恐怖は最初は


想像以上だ。それで坐って確かめる。


それでも死と愛を境界から確認するだけで何年もかかり、そこから愛を見切って、死の淵


にまで行ってみたのは、つい最近のことだ。精神的に限界を一時?感じて一旦意識上で


戻ることにした。それは個人的に重要な発見だった。死に淵を感じたということは、


死の地帯にある境界があることであり、そこからさらに先が別のものがある、という


可能性が高いからだ。エベレストの空気地帯が人間の血液の酸素レベルを下げるの


だったか、そういうようなことで生理的に7000mより高い地域ではそのまま


人間が自然に息絶えてしまう地域なのだ。この世ではない世界でも同じような感じ


で、そこにいるのは現実の自分の肉体ではないにも関わらず、長居ができないのは


面白い。死の淵とはそういう世界であまりに広すぎるので、この銀河系とかの宇宙


がいくつも入っていてもおかしくはない、といういい加減な感想を抱かせられる。


根源とかいう言葉は、またすべての言葉という認識標識はここではまったく役に


立たない。闇の世界で「なにが見えますか?」と聞かれても答えられないのと同じ。


だから、この根源というのは僕のその世界へのかすかな郷愁なのだ。ノスタルジア


に過ぎない。人間のささやかな気持ちに過ぎない。


ニーチェの言うニヒリズムはちょうどそんな感じでこの虚無を捉えているが、それは


認識からそれを観察したような言い方(哲学)で、そのなかのどうしようもない実感が


言わせたものには、僕には感じられなかった。僕なりには、それが哲学的知の限界だと


思えた。


こうしてパソコンの前に坐って感じているのは根源への感傷なのだ。根源という言葉の


響きに想いを重ねるが、その先はむなしい空間が無限の彼方まで続いてゆく、という


想像しかできない。


そして、


僕はここにいるから、その窓の外からそれがずーっと


夜の果てまで一緒に続いている気がしてならない。不思議に心理や精神を歌うような


楽曲はどれでも似あう。響き合う。


アー、アー、ア  オウ    ( シンセサイザーっぽい 狼の声  だろうか










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バーミヤンのあとは物理学

今晩は若い知人が成長していたのに、少し驚いた。 バーミヤンで2時間半ほど話した。今まで同じ料理を頼んだことがないのに 同じ定職を注文した。これは相手と波長があっていると示す時に、出る行動 である。この8年で初めてとなれば、驚いてもいいだろう。 自分の考えた新しい考えも披露していた。これにも驚いて、「君の言うとおりだ」を 連発した。人が進んで、成長した姿に出会うと、まるで自分の世界が変ったように 感じる。でも、彼は仕事上で大変でアドバイスをもらいたいと、思っていたのだ。 成長する素直さが出て来て、自分の考えを述べるようになったら、ほとんどアドバイス は必要ない。聞いたら、すべて前もって答えを得ようとする心配で、考え過ぎという 不安だった。やはり、アドバイスは必要ない。 人は失敗を恐れるあまり、未来の答えを現在に求めようとして、考えても仕方のない 答えの出す不可能を、考え出そうとする。 そういう心の問題はその場で答えを出せばいい、と。それだけだ。 その時までに自分の心や気持ちがどうなるかはわからない、いつでも、永遠に わからないことだ、と。その時にその時の自分が答えを出すべきで、今の自分は 関係ないのだ。だから、つまらないことで悩む必要はない。 物理学の話はまったく出ない。彼には興味がないからだ。彼とは中国人による 中国史をやろう、ということで話が決まった。
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