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つまづくと書ける兆候:日記 [日記]

不安は恐怖から生起される。それは昔

からよく知られていること。

今の状況は不安と平安の境目がはっきり

しないし、あいまいな領域があり、その

ために不安も平安も一緒に存在すると

いう矛盾じみた状態なのだが、ともあれ

平安の位置に心身をふつうに寄せるので、

矛盾も感じず、その両方を平安側から

眺めるという具合だろうか。

そういう自分を意識すると思うのだが、

やはりある意味での不思議さを感じる。

こうして自分のことを書き続ける動機も

あいまいだし、何らかの意図が、僕自身

に、あるいは他の遺伝子の記憶とか、

共感覚のようなシンクロがあるのか、

わからないが、そういうものを疑う。

憶測でも、意識の最先端であるならば、

それはこれまでの書いた通り、僕らの

予測のつかない毎瞬に変化を被って

いる進化の微妙な過程が考えられる。

それがなければ、僕らは成長しないし、

子供から大人にもならず、思考も感情も

感覚も影響を何物からも受けないので、

知的障害者のように歳も取らないだろう。


それを証明するためにこうして、毎日の

思考や生活の変化を書き綴っていると

いうのも、書いている理由になるという

気がしている。そして、それを信じて

いないもうひとりの自分がいるのも

事実だ。そうして、自分を活かし、生か

す方の意識の状況に中心を置くのだ。

その意味では功利主義に見えるが、生存

はそれを基本に必要な掟や法則ぐらいに

までと思っているだろう、と自分でも

確信している。


アメリカの製造業都市で駅が上にあって、

鉄骨の組み合わされた階段を登ってゆく

光景にはなぜか、(労働者階級の)生活

の匂いを感じて、日本にはないそのむき

出しの階段を忘れられないのだが、それ

に忘却されない理由を見出せないのも、

またよくあることだ。


ここでつまづく。珍しいが、最近はもの

をよく考えていないのだろう。その

ストックがないので、書くことが無く

なってしまうのではないか。何を書い

てもいいから、と思っても、実際には

「何事か」を書くのだから、そこには

どんなに微妙でも恣意がある。

ふつうは善を書く、楽しさを書く、

驚かせることでも社会で想定内のもの

を書くに決まっている。決まってはい

ないのだが、僕らはほぼそれに従って

いる。もちろん、無自覚にだが。・・、


この社会・世間に合わせて、その性質に

寄り添い、評価が得られるような恣意が

必ずある。それが社会的性格で、僕らの

受けた教育はそれを刷り込むようにでき

ている。

それが人間の知性がすることの本質から

十分に想定内で推測できる。未来の姿を

どんどん重ねてスケールや技術的デザ

インを組み合わせたものだ。

それも宇宙にでも出れば、多くの人が

人生に対する考えを変えてしまうほど

の経験が得られるのだが、それにしても

最初期の頃でなるべく少人数で体験する

必要の内で、だろう。残念ながら、誰

でも宇宙に行けるようになると、僕らの

頭は概知感で新しい経験の未知さという

新鮮なエッセンスをすぐに隠して、

忘れさせてしまう。レコードやCDで

同じ曲を聴き過ぎると、最初の頃の

感激がなくなってゆくようなものだ。


初めから予測していたのは、ものごと

の様相がわかればわかるほど、それらが

密接に結びついていて、世界の複雑さは

その内容が混乱しているのに反比例して

そのひと眼は単純なイメージに収束され

るだろう、ということだった。

むしろ、それを予測しながら、解明に

向けて実験を繰り返してきただろう、と

も言えることだ。

そして、それは誤らなかった。世界は

そういうい様相を明らかにするのを

止める様子はこれまでにはない。

それは世界を理解する、という思考的な

ものよりも体現する、という自己に

反射的に与えられるような表現・実現を

要求し始めるものだ。わかるのなら、

それを説明するのではなく、それを

生きろ、人生で表せ、というわけだ。


しかし、すべての恣意や意図にはその

恣意内、意図の内というあらかじめの

限界範囲が存在する。スケールがその

人に応じて(自然な)決まっている。

理屈だが、限界は限界が小局でそれ

ぞれにあるから、大局では限界は破る

ことができ、その意味で限界は存在し

なくなる。

その微妙な仕掛けがあるのだが、ヘーゲル

はそれを概念を生命原理にまで信じて、

止揚(アウフヘーベン)という機能に

まとめて説明したようだが、概念が

固く信じられたので、読者はその意味を

そういうように解したが、微妙な昇華

の炎については見逃す結果につながった

ようだ。その点をキルケゴールやニーチェ

などが表現しようとしたが、カントから

止揚しようとしたヘーゲルの問題はカント

の超越的意識の前提という命題ですでに

現れている。(カントは三大批判書を

書いているが、その中心の「純粋理性

批判」は四度だったか、書き直している、

という。)

この摩訶不思議な「超越」を説明が

不可能なことから、逆にどういう説明

の方式も存するという逆説にあって、

あらゆる言葉哲学が可能になって

しまっている。


僕らはそれからどこに居るかというと、

まったく雲をつかむような有様で、

それは僕らが現代という環境に包まれ

それに順化して、その意識も持てずに

現代という特殊な一点から歴史を考え

ているからだ。

カントの「超越」もヘーゲルの「止揚」

もその中味は時代の環境の中身を知る・

感じるという直接的なもので、推考

した概念事項ではないのだ。

誰がするのか知らないが、そういう人は

いつも現れる。遠くの時代の風を或る

時間の間隙から感じ取って、その内容に

ついて語れる、ということが。今も

いるだろうが、その人がそれを伝える

のに適切なセンスや才能を備えている

かとなると心もとないので、少しは

待たされるのだ。

ブッダは2600年も現れていないし、

音楽のモーツアルトも200年以上も

現れていない。まだ余分な遺伝子は

それぞれの人に十分余裕があるので

現れるのは、確実なことだ。

必要は発明の母、ということがあるが、

ことの始まりはそういうことになる

のだろう。

陶芸の東京の先生と他の人との雑談で

器のなに(美?)について「好き好き

が半分だけれど、後の半分がいいもの

だとすれば、なにがいいものか、わか

ればわかるほど、わからなくなる」と

言ったのが、先生には非常識に聴こえ

たらしいが、それは世界の複雑さが

わかれば、ますます錯綜して、わから

なくなることを言ったものだ。

僕らがわかることを前提になにかを

規定する以上、わからないものは

それをはみ出すもので、実際にはさら

に増え続けるのは必定だと僕は、思う

のだ。


そういう、考えるとかくも不安定で、

気持ちは安定した空気が支配する、

そういう矛盾を帯びた二重の生活環境

を想像できるだろうか。見えない

意識の環境とかいう状況を想像する

のは、健康にはよくないのではないか

と思っている。

僕はますます、集中して積極的に

思考・追及する生活からは離れて

行く気がしている。

現代にも自然に共存する意識の

生活法はあるだろう、工夫次第・

実行次第・試行次第だと思っている。

それははっきり眼に見えるものでは

ないと。



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奇妙な式: 動物+人間 → 自分 [自分]

この式は僕の場合は正解だが、一般解

ではない。だから、逆に、

{自分 「→」 動物+人間} には

ならない。矢印は逆向きにならない。

自分を分析し続けても、動物も人間も

導き出せない。

自分を仮に消滅や破壊しなければ、

その人の正解は出てこないだろう。

新自分.png

新自分感覚 陽秋画


自分ははっきり意識できるが、内容と

しては矛盾した半面同士があり、それは

自意識と無意識との矛盾という一般解と

自覚と無自覚という夢の矛盾を抱えて

いて、無自覚は自分が意識していない

時にすべての行動の素因をなす。

自分が壊滅すると、自分との適応・不

適応という命題・問題がそもそもなく

なってしまうので、一般的は耐え難い

不安や苦しみに襲われると思いがちだ

が、ありのままに映るリアルが生命

を支えるので、虚しい状態のまま、

なんの不都合もなく暮らせる。

それは奇妙な精神生活ではある。

ありのままの動物とか、ありのままの

人間ということが、元から矛盾して

いる。人間の主に「心」とまた、それ

に重要かつ多大な影響のある「体」の

神経や感覚が複合してバランスして

いるのが「自分」という概念の状態

だからだ。

自分が壊滅すると、僕らは目的も

結果への追求も失う。根無し草のよう

にその日を生きるようになるだろう。

それは通常、無自覚な不安から孤独

に放浪とか彷徨したくなるようだ。


良寛さんは(思い出す限りでは)

18歳で仏教修業・学業を終えて、

外(世間)に出よと師の僧に言わ

れて、全国へ向け放浪して、ある村

で世話になり、あばら家ももらって、

そこで仏の道など説いて、子供と

遊んでいた。


一休さんは偉い人の御落胤で、

村人の問題をかなり頓智の知恵で

解決した人で、晩年に全盲の中年

の尼僧を世話して、また惚れて性

生活に豊かさを見出して、その

尼僧を置いて、死ぬのは嫌だ、と

言っていた。権力者の相談にも

立ち会う立場だったので、通俗

の環境とは縁が切れなかった。


西郷さんは若い頃、改革者の僧が

入水処刑された時に一緒に入水し

て、心中を図ったが、一人助かっ

てしまった。

明治維新までの中心をなした人で

最後までやり通した人だった。

その代わりに彼の弟三人はほぼ戦場

で重傷を負い、亡くなっている。

ひとり、頭に銃弾が当たりながらも、

奇跡的に助かり、その後は裏方の事務

で戦場に出なかったので、明治政府

に召し抱えられた。その弟、従道は

西南戦争でも西郷を助けようと尽力

した。

情け深い西郷は弟の死に激しく嘆き、

戊辰戦争でも東北で敗れた者へ寛大な

措置をして、それに感激した若者は

西郷が政府から下野した時には鹿児島

へかけつけたほどで、後に神様として

神社ができるほどその人柄が慕われた

人だったが、底の知れない人物で、

心の中心に自分はなかったようだ。

時代は彼を利用したかのように維新

を遂げさせ、最後に古い絆を断ち

切るかのように、古い考えの若者たち

とともに戦死して、維新の残務整理

までした。

西郷さんは底のない人物だったろう、

闇の魔力化のようなカリスマが兄弟

たちを犠牲にして、彼自身は何を

したかったのか、自分でもわかって

いなかっただろう。朱子学みたいな

当時の教養(そこからの敬天愛人)

があったが、それは表向きのもので、

彼は人への愛と戦い好きの矛盾した

面を持っていた。人に慕われる面は

いつの時代でも強調されて、イメージ

として残る、それが歴史のプロパガンダ

だ。それでもそれを尊敬することが

その時代への敬意であり、僕らの偉大

さだろう。


それを説明はできない。これが自分

を認識する正確な分水嶺だ。人は

自分を以って認識しようとするので

勝手な意見に終わってしまう。

好き好きな意見がのさばるのも、

また自然状態と言えるだろう。

説明ができない実相の状態も

勝手な意見の自然状態も、似たよう

にイメージはひとつですぐわかる

のに、内容は入り組んでいて、

その矛盾を同時には説明できない。

その意味ではどの人の人生も矛盾

はないのだが、一面や固定した

視点などで決めつけたがる点を見る

と多くの間違いに気づく。

しかし、人は誰かに「あなたはなにか

である」と、指摘されたり(主に賞賛

を望むが)決められたがっている自分

でもある。


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中国古典音楽 古琴 [音楽]

前にも書いたが、中国の音楽の古琴は

一度心に捕らえられてから、ふとした

時に聴きたくなるようだ。

その楽器の所為だろう。哀愁を帯びて

いることが多く、二胡になると、その

琴線的な音色に、今ではしびれてしまう。

派手で盛り上がる演奏・音楽もあるが、

郷愁・哀愁の悲しみを帯びたものが好き

なのは、子供の頃にどこかで聴いた記憶

がある所為だろうかと、頭の中で遠くを

眺めるようだ。

単調な中に空気をつんざいて、哀しみが

夜を渡ってゆく風情がある。

聴きながら、今誰も聴いていないの

だろうな、と思うと勿体ない気もするが、

これは好き好きなので聴いて楽しめる

には時期もあれば、きっかけもあるのだ

ろう、と思ってしまう。

中世の木造のわび住まいで聴いたら、

たまらないだろう、と勝手な想像を

逞(たくま)しくする。

水墨笑う仙人2-1.jpg

これは雪舟の同時代の画家が描いた

ものだと思うが、にやけて風に吹か

れた衣の風情も珍しくて面白い。

それで思い出したが、印象派の第一人者、

どの画家も影響を受けたというセザンヌ

は髑髏のデッサンをしていた。それで

僕も人間ではなく、猿の髑髏なら手に入れ

られるのではないかと、思ったが、上野

動物園にはまだ電話を入れていない。

それからは猿の骸骨を欲しくなり、

最近気がついたのは、陶芸をしている

のだから、粘土で作ればいいのだ、と

気づいた。

猿頭蓋2-1.jpg

これは牙が生えているから、大昔の

猿ではないか。

猿頭蓋7-1.jpg

これも猿だが、笑っているように

見える。「笑う猿」を作ってみたい

と思うようになった。

猿は眼窩が大きくて、脳の部分が

小さいようだ。人間の脳の増大と

いう進化は環境の動機は何で、どの

ように齎したのだろうか、と疑問が

湧いた。
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南国ロックダウン [詩]

シェミガンビーミ・ラ・ローンローン

ロン 

カンダウンカンダウン・ギーミ―

ラ・ロイロイロンロン・ロン 

ハギマ カンダウン  カンダウン

ロンダウン  ロンダウン 

カミライ オ・オ・オ・オ・オ・オ 

ウーン ロンロンローン  ロンロン

ウィガネ シッソンウォ―ン 

ギミガミ サンダウン  ロウダウン

シェミガミ  ロンダウン ロンダウン

ノーテミ  オウオウオウオウオウ 

シーアボロ  カムダウン カムダウン

トーキン アスクユー  オ・オ・オ・オ・オ

カムダウン カムダウン 

オウ・オウ・オウ・オウ・オウ 

ヤンダウン ヤンダウン ヤンダウン 

アーイ ハーイ 

フォー ロンダウン  ロンダウン 

ディギサイミー オウノア ギミー 

テルアス  テルミー  カムダウン 

カムダウン  オ・オ・オ・オ・オ 


アナソーレスキュ ノトミ 

ダブリュアイ コンコン  ダウウァイ

ハス三―  キスユー  カムダウン 

ベイビー  キムアシュ  ラシュアイ 

バイビー  カムダウン  カムダウン 

ヤム ダウン  ロックダウン  

ロックダウン  ロ・ロ・ロ・ロ・ロ 

カムダウン  カムダウン 

ロ・ロ・ロ・ロ・ロ ウォ・ウォ・ウォ・ウォ 

カミライ ヘミギャウワイ べランズロ 

チンゴウォン カムダウン  カムダウン 

アサリシマイハウ ドンコウウォウ 


オ・オ・オ・オ・オ ロ・ロ・ロ・ロ・ロ 

シーマイ パティ コウフォンヲ 

ベイビー  ショウミハウ カミライ 

カムダウン  カムダウン 

オ・オ・オ・オ・オ ロ・ロ・ロ・ロ・ロ

( ユー  ラーイ  レーロ)

ハーイズ  ラーイズ  ヤンガウン 

シーウェイ アロー  ユニオア 

ハイウェ チンゴンウォ ドゥブオア 

シー  カミライ  ン~ 

シギレミ カムゴン  ウォン 

フォー カムダウン  ヤムダウン


夢のように  青い空 

鮮やかに 輝く  碧い海 

南国の 歌が  イカダに 

乗った リズムで  

南国.png

カンダウンカンダウン・ギーミ―

ラ・ロイロイロンロン・ロン 

ハギマ カンダウン  カンダウン

ロンダウン  ロンダウン 

カミライ オ・オ・オ・オ・オ・オ 

ウーン ロンロンローン  ロンロン

ウィガネ シッソンウォ―ン 

ギミガミ サンダウン  ロウダウン

シェミガミ  ロンダウン ロンダウン

ノーテミ  オウオウオウオウオウ 

シーアボロ  カムダウン カムダウン

トーキン アスクユー  オ・オ・オ・オ・オ

カムダウン カムダウン 

オウ・オウ・オウ・オウ・オウ 

ヤンダウン ヤンダウン ヤンダウン 

アーイ ハーイ 

オ・オ・オ・オ・オ ロ・ロ・ロ・ロ・ロ 

シーマイ パティ コウフォンヲ 

ベイビー  ショウミハウ カミライ 

カムダウン  カムダウン

・・・・・・・ ・・・・・

・・・・・・・ 

・・・・・・

・・・・・



原詩: Calm Down :: Rema&Selena Gomez
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信号のない通り(海外)と信号故障の時(日本) [文化]

信号故障という事故が過去に1回、

座間市の246号線の交差点であった。

そんなことを自宅で耳にしたが、

特に興味もなく野次馬みたいに見に

出かけることもなかった。

ところが、信号の向こうに用ができ

て、そこへ行かざるを得なくなった。

どんな状態だろう、車が停止して

大混雑だろうから、歩行者は渡れる

のかしらん、と出てみた。

ものの10秒も歩けば、交差点の見える

通りに出るのですぐわかる。

なるほど渋滞もいいとこだ、交差点は

車だらけだった。

またところが、近づいてゆくにつれ、

状況が見えてきた。それぞれ四方向から

入って来る車同士で身動きができない

だろう、と推察したのだが、車が少し

ずつ動いているのである。わかれば、

驚くべき光景だった。直進車もいれば、

右左折する車もいる。左折は楽だが、

右折車は縦横の直進する車を二重に

避けて進む。そんな車もいる中で

車同士が互いに接触しないように、

少しずつ譲り合って、それぞれ動いて

進んでいて、皆交差点を乗り切って

いるのである。

まだ警察も来ていないので、信号が

真っ暗な中、その場その場のやり繰り

だけで、なんと皆、交差点に入り、

時間はかかるが、ちゃんと出て行って

いるようなのだ。見渡しても、どの車

も立ち止まって、事故の交渉をしている

のは見かけない。全車無事だということ。



驚き、そして感心してしまった。これが

日本人か、と誇らしくも思った。

外人が見たら、たまげるだろう。そして、

西洋社会では決して起こらないのでは

ないか。欧米ならそれぞれクラクション

を鳴らして、どけどけオレが通るんだ、

と言わんばかりにお互いに動けず、事故

も起こりパニックにもなっていたかも

しれない、と予測がつく。そういう気質

なのだ、向こうは。 仕方ない。


さて、そして歩行者である。車はいいが、

歩行者はどうしているかと言うと、心配

ないのだ。そのゆるく動く車の間をすり

抜けるように、大して用心もなく皆、

歩いて渡っている。

つまり、時間はかかるし、不安もあるが

交差点はそれぞれの通行に機能している

のだ。僕は心で笑いながら、交差点の

ひしめき合った車の間を余裕で歩いて

渡って来た。

10分くらいして戻ってみると、警察が

来ていて、中央に手差しの指示をする

警察官一人に、その他四つ角に警官が

配備されて、細かく指導していて、

信号が復帰するまでその手旗の信号で

やっていたようだ。もう見物(みもの)

ではなくなったので、少しがっかりして

帰った。


実はこれと似たことを常にしている国の

或る通りを経験してきたのを忘れていた。

思い出してみると、あれは東南アジアで

のことでベトナムだったか、タイだったか

忘れたが、観光客が多い通りのことだった。

向こうの通りに渡りたいのだが、8mく

らいの幅のその通りは、自転車、自動車、

リキシャ―もいたか、ラッシュ時のよう

に百台くらいがいつも走っている。

そこに向こうに渡るための信号や横断歩道

がないのである。右も左も見る限りで、

信号はひとつもない。

どうしたものかと見ていた。

僕はこうした現象を目撃すると、落ち着く。

シャーロック·ホームズばりの推理を

働かせるチャンスだからだ。すると、

渡る女性がいて、現地の人だろう。自転車

も車も停まってくれてなんとか通っている

ように見える。

そこへ向こう側のインド人風の顔の濃い

おじさんが家族を渡すのだろう、なにか

わめいているのか、手を振って走る車に

向かって行った。家族は子供もいて4人

くらいだったろうか、大騒ぎだった。

そこまで見て、見当はついた。なんと、

信号は要らないのだ。

ただいつものように少し、車や自転車

の空いた処を見計らって歩き出せば、

それらの車は止まってくれるのだ。

それが習慣になっているのだろう、

それで不便はないから、信号がない

のだ。

ー:と思っても、実際は大量の車・

自転車が押し寄せて流れているので、

地元民でないととても渡れる状況だとは

見えないだろう。

こうして確信した僕は2mくらいの

隙間を見ると、そこへ足を出して

歩き始めた。さすがにちょっと度胸が

要る。思った通りに、自転車も車も

危なくなく慣れた調子で停止するので

今度はその急停止が危なくない技術に

感心してしまった。1台が止まるのを

見るが早いか、その横も後ろもそれに

合わせて止まるのがスムーズなこと。

これが文化なのだろうか、とも思わせる

足並みだった。 見事。

初めの自転車が止まってくれると、あと

は気持ちも余裕だった。推理が当たった

ので、頭で笑いながら、その信号のない

通りを渡った。 爽快。


郷に入れば郷に従え、とはよくぞ言った

ものだ。東洋のこういう習性はどういう

感覚や感情から生まれたものだろうか、

と考えたりした。ま、いいとこばかり

ではないが、・・・。


ベトナム?夜1.jpg

これは別の国の映像だろう、夜だし、

同じ旅行の日程で。KFC(ケンタッキー

フライドチキン)の店が見える、確か、

(2012.12.08)この2階のレストラン

で食事をした。
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風と 縄文 [夢]

風の子ら 

見えない 童子 

近くに 寄りて 顔を

見せよ


東々海 とうと海

泣き濡らし 幼い娘 あらば 

玩具を 与えよ 


巻き散らす  つむじ風 

本日は  晴天 なり 

今日という 日は  

祝祭日  なり 

謳い  足腰 かまわず 

動かして  踊り 

この日を  讃えよ 


今日は 人類 最後の日 なり  

本日は 新しい人たちの 

生誕する  吉日 なり 

地球の  衣替え 

さすれば  入学式 なり

とも 言うべきか 



古今  

終わりは 始まりなりと 

言うからには 

昆虫の 殻から  出るは 

成虫への  昇華の 儀式のみ 

ならず 

生きとし 生けるもの そのものの 

生態学にも 似た 

血の流るる 歴史ぞ かし 



僕らは  行かん 

その道を 

その 

進むべき 道を 

他に 迷いようもない 

天然自然の  道を 

やよ  忘るな 

一万年の  縄文を 

これまでの 新世代よりも 

長かった  時代を 


遠く  厚い  空気を 

風の  まにまに 

赤子の  間に 間に 

すべて  用意されて 

いたこと を 





:::
(参考) 

万葉集 第一歌 

すめらみこと*の御製歌

籠(こ)もよ  み籠もち 

掘串(ふくし)もよ  み掘串持ち 

この岡に  菜摘ます子 

家 告(の)らせ  名 告らさね 

そらみつ  大和の国は 

おしなべて  我こそ 居れ 

しきなべて  我こそ 居れ 

我こそば  告らめ 

家をも  名をも  

: *雄略天皇

陽秋の夢1.png


陽秋の夢:

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自然の営みも僕らの営みも [自然]

YOUTUBEで自然の画像を検索した。

安曇野での清冽な水が流れる、水車

が三基下流50m先に回っている、

森の木々に囲まれた幅4mほどの川

の映像があった。美しい水、小鳥の

鳴き声も時々。

ここは訪れてみたい場所だ。

そう思い光景に惹かれ、眺めていると、

気がついてしまった。川の流れに

水面から顔を出す水草が、時々

流れに負けて潜り、しばし姿を見せ

ない。これはよくある現象なので

不思議ではない。が、4分も見て

いると、別な違和感を覚えた。これ

が自然をよく知る者の反応だろう、

と思う。

これは反復画像ではないか、と思い

始めた。ある程度の時間を撮りっ放し

にしておいて、後はそれをくり返す。

同じ水の流れに見えるので、バレる

ことはあまりない。

しかし、この違和感は僕の興を削ぐ

ものなので、検証した。これは自分

の何気げない反応が正しいものなのか、

といういつもの日頃の検証と同じもの。

そして、見つけた。

小さな白っぽい羽虫が画面手前から、

出て、下のほうを左へ移動して、左側

からはみ出て行って消えてしまう。

ずっと見ていると、それが2,3分で

またくり返す。同じ虫の種で、同じ

軌跡で飛んで、同じ場所から消える。

それでもう見るのを止めてしまった。

興が乗らないのである。


僕の知っている山の自然は自然を裏切ら

ない。それは当然のことなのだが、何が

違うかというと、自然は長い時間同じ

表情を続けることが出来ないのだ。

どこかしらかが少しずつ、あるいはそれ

まであった表情から急に別の表情に

変わる。雲の流れが少しずつ変形し

ながら流れるように、なにかが変わら

ない自然というものは自然ではない。



僕は山の生活でそれを学んだのかもしれ

ない。上高地の梓川の流れを見つめて、

飽くことがなかった、1時間くらいなら。

いつもそれ以下で切り上げていたが、

それは他に山の楽しみがあったからだ。

水流の流れに同じ変化がいつまで経って

も(近似はあっても)二度と起こらない

のに、感心したのもその頃の発見だ。

だから、同じ映像には自然と死のように

動かない何かを感じて、急に気づく。

なにかそういう疑いを前提に考えて

眺めているのではないから、これは

自然に身についたものだ。



前にも書いたが、CDの音楽は生の

演奏を編集してしまって、人間の耳

に聴こえない周波数は取り除いてし

まっている。僕らは生から少し違った

ものを聴いているのだが、それを

意識はできないと思いがちだが、最近

レコードの人気が上がって来て、中古

の書店チェーンでも、中古のレコード

の販売をするようになった。

レコードはほぼ生の音を拾い上げる。

聞こえてはいないハズなのだが、人

はレコードのほうが音が柔らかい、

とかやさしい、と言う。これは聴こえ

ない音を、聴こえてはいないが、なに

か感じ取っているということの証明

だろう。人の感性はさまざまなので、

聞こえない音を耳でなく、感じ取る

人もいるのだ。それもそんなに少数

ではない。

つまり、世界の自然は見えないもの、

聞こえない音、肌に感じるなにかで

満ちているが、それは見えず、聴こ

えず、肌に直接反応しないために、

記録されなかった。が、この世に

確かにある(存在)ものなのだ。

それを感じるには喧騒から離れる

必要があるだろうし、僕らは無意識

にそれを求めて、野や山に海に、

渋滞を覚悟して出かけるのかもしれ

ない。

そういう雰囲気だけでしかわからな

いものは、僕らが人間関係で敏感に

相手がどんな感情化を察知するように、

それと同じくらいに気づかず(自覚せず)

に察知していてもおかしくはない。

それはこれからも僕らを豊かにして

くれるなにかであるし、なにかで

あり続けるはずだ。

こうやって、気がつきにくいくり返し

の映像に気づくたびに、こういうこと

を見つけるたびに、山への感慨を

深めるのだ。そこには僕らの想像を

はるかに超越するなにかの塊がある、

と。

近くのそれなりに広く深い林のある

谷戸山公園に行っても、あの北アル

プスのはるかな雰囲気に出会えない、

という感慨はそういうことなのだ、

と。

IMGP0083 (1024x524).jpg

これは南アルプスで、たぶん、11年前。


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ひとり・少数ならあっても、全体は思い通りに平等にならない [平等]

ある時、急に突然、運がよくなって

いる、と気がつく時だあるものだ。

目の前が、それで開けるという空気

の感覚が広がる。

信じられない、昨日までの陰鬱な

どうにもならない閉塞が破れたのだ。

と言っても、窓の外は曇り空の重さ

でシン、としているが、・・。

これはいつだったかの近い過去の

自分が用意したものだと信じられる

だろうか。僕があいまいな未来感覚に

頼らずに、考えてみると、そうなる。

考えてそうなるは、「想像上のこと」

だと、だから事実は違うと人は思う

だろう。それが違うのだ。

それは人は自分が考える、それは同じ

だが、自己の意思がまったく働かない

で思考する時には、自然を捉えること

が出来る。なぜなら、そこにはこう

なりたいとか、こうありたいという、

思考の方向が歪んで左右してしまう

伝統的で習慣化した過去の要素がない

からだ。ただありのままを自分(精神)

に投影するから。

それが目の前を見る、というほんとう

の意味だが、僕らから自己という先入

見の眼のベールを取り払うのは難しい

らしい。自分からの方向から考えると

いう教育・習慣・世間で暮らし生きて

きて、それは僕らも無意識な掟にも

なっているからだろう。



自己を失うのは、厳密には不可能だが、

ブッダはそれに挑んだ。彼の死の数百

年後に仏教は体系化されて、ブッダの

成果はその陰に隠されてしまったが、

正しく見て、正しく考える、といった

言葉だけになってしまったものは、

それを示している。

ブッダの考えを古仏典に求めると、

死の思想に集約される。それは僕ら

の生の状態・状況を見るとはそれを

客観化するということで、生ではなく

死の側に立って、それを眺めること

を意味している。生のしがらみ・

こだわりを超えて眺めるのだから、

あらゆる先入見なしに観ることに

なるので、ほぼ僕らに可能な真実

に近い姿が捉えられることになる。



その意味では成功に値するのだが、

その過程では死の側に慣れるまでは

精神的に危険な状態に陥るのは常識

・常態だろうと思う。瞑想でも、初め

はそのしがらみ(過去)が自分を苦し

めることはあるので、それは瞑想での

最初の難関門として構えているだろう。



死の側に坐るというのは、徹底的に

孤独に留まるを意味するから、よほど

の事情が個人的に発生しない限り、

死の仏教には惹かれないはずだ。

首吊りをしようとして縄が切れて、

それを二度も失敗して、死に損なった

上田三四二は空海にも同じようなこ

とがあったと思い(これは調べて

みたが、不詳)、僧職の人に頼み

込んで、特別に仏教徒の修行をさせ

てもらい、のちに学者になった。



修行者は当然、(自分の)死をなん

とも思わなくなるから、断食死も

怖いということはない。死にたく

なったり、消極的にも死んでもいい

と思うのは当たり前になる。

それが過剰になると、大した理由

でなくても死を受け入れてしまう

だろう。これが世間で仏教の洗礼

や瞑想を避けたいと思う自然な生

の感情からなのだと思う。

この場合は例えば、ギリシヤの

パルテノン神殿の柱は数ミリの

ふくらみ(エンタシス)がある

と学校で習ったが、それは人間

の眼は垂直線の柱は少し真ん中

が凹むように見えるという錯覚

を矯正するために技術的に膨らみ

を持たせた、ということだが、

ただ子供のように見る眼を持てば、

それが錯覚の知識なしに見ること

になる。

ありのままというのはそういうこ

とだが、これは見るについてであり、

(それができる)一部の画家の目

を持つことでもあり、目の訓練で

も適えられる。



自分で自分の人生を築き、構成する

という絵空事のようなことを本当に

実行するということが信じられる

ようになるのは、その先にある。

それは現実の壁を許容範囲に入れる

のはもちろんだが、それは普段の

日常では恐れる究極である死を受け

入れている状態では難しいことで

はないのだ。

だから、例え、あばら家でも気にし

ないのだ。僕らの文明・文化の生活

水準は必ずしも必要不可欠なもので

はないだろう。見えるもの・感じる

ものが違うので、そもそもからそこ

から導かれる考え方は僕らと相当

異なるだろう。

それは僕らが共同地域や社会内で

いろいろな知識と考え方が人次第

で違うのと同じくらいに自然だ。

その点からは、僕らが平等を求める

と言っても、それが経済格差のこと

という一部に限っても、その実現は

お互いの感情や感覚・考え方によっ

て矯正されるという人権の尊厳を脅か

す問題だから、人間の平等というのは

そもそもが矛盾した命題・問題なの

だろう。


それは全体を平等にという考えが、

つまりは自由や平和にとってそれを

それぞれに脅かす、自由の制限や

平和を崩壊させる危険をもたらす

考え方(方向)だということだ。

もっと言えば、よくよく論を凝らす

と、自由と平和と平等というフランス

革命の命題は、それぞれ良いとこ取り

で、それぞれの犠牲がそれなりになけ

れば成り立たないものなのだ。

表向きの概念だけ善いものとして喧伝・

教育しても内容は詳しくは矛盾し合っ

ているという欠点がらみのもの同士な

のだ。

だから、欧州の憲法は自由・平等・平和

が目的ならひとつに決まり、それを維持

すればよさそうなものだが、実際には

何度も憲法改正するほどに変更が必要

だった。

三角の積み木で正球を組むようなもので、

あちこち妥協しなければならないのだ。

僕らはこうして、初めから解決できない

命題を標榜して、アインシュタインの

特殊相対性理論の数式のようにE=mc²

という美しい式を目指しても、それは

自然に絶えず変更を迫られている。

アインシュタインも量子力学を虚妄

だと考えたので、晩年は統一理論を

追及して考えたが、できなかった。



自然という全体はひとつだが、その

内容はそれぞれが矛盾してしまう

もので出来上がっている。細かい

部分での単一式はあるが、それも

時限的でいつかは崩れる。

僕らの空気圧も水も地球の成分

構成も時間をおいて変遷する。

その時代時代での自然に対応する

数式を必要とする。

恐竜時代の地球は現在とはかなり

異なっていたはずだ。



僕らの社会の憲法が変遷するなどは

常識として教えられなければならな

いだろう。僕らは全体の平等ではなく、

徹底して不平等の実態を探り、目に

見える化すべきだろう。そういう

大図面の、改革できない不平等構図

から出発して、それを眺めることで、

僕らが人によって(程度があるが)

求めるべきと、求めてはいけない

ものとの区別の認識が、まず必要だ。

その上で憲法にしろ、法律にしろ、

生活にしろ、政治と経済との按配も

し、安心安全の公私にわたっての

工夫も考えだすべきだろう。

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文学的と呼ばれるもの [文学的]

文学の匂いというものを時に

感じることがある。大正時代の

夜の街灯のような雰囲気とその

懐かしい古さを文学的と呼んで

いいものなら、そう呼びたい。

これは細い一本の筋だとわかる。

まだ理想とか、夢とかの墓場の

跡だとしても、それがひとりの

あこがれの時代を背負うように、

任侠映画を観るような興奮が

密かに眠っている。

だから、それらは間違いなく過去

を扱った世界なのだ。僕らの理想

とかあこがれというものには、その

タイプ・型があってそれに当て

嵌まった感覚を求めているもの

なのだ。知っているものとはすべて

過去であり、そうでなければ安心

できない。それで簡単に自分以上

とか優れたものを求めて、誰かの

理想を自分のとして、それが繋がっ

て善とか正しさの思想を形成する。

そこで僕らは前を進もうとする時に

奇妙なことをする。

その過去の跡に頼りながら、未知の

事柄に挑もうとするのだ。そうして

結果は過去が役には立たないにしても

その前向きの感情的な役割は果たして、

未来のそこに、その過去が崩れる処に

新しいルールを見つけ出してゆくので

実際の後ろ支えとなるのである。

感情は前向きな思想にはならないが、

行動にはその支えにどうしても気持ち

を必要とする、となる。

その意味で僕らは文学、あるいは文学

的雰囲気を必要とするのではないか。

水墨用6-2.jpg

何気ない写真を撮ったつもりでも、

モノクロ風にすると、すぐ時代がかって

しまう。今の光景だが、30年後に感じる

すでに過去の光景でもある。
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弱さは他人への強さに、強さは孤立しひとりになる [心理]

地球は回り続けるのだろう。僕らの

寿命などは気にせずに、地表に光を

照らして、それが朝だとか、日没だ

とか、夜だとかは区別していない

だろう。

僕らは理想を持って生きてゆく。

それが理想だとは知らずに、ただ

生きる指標とか、経験から信じた

金箇条・信念かも知れないが、それ

を抱く。

気持ちを、特に愛とか、それが僕ら

にできる最高の善なのだと思う人

も多い。天草四郎の島原の乱は幕府

の将軍は家光だったが、最後に原城

へ籠城したが、この時の戦いに宮本

武蔵も参加していた。そして、中に

は自ら抵抗せずに切り殺されてゆく

信者を見て感動している。

キリスト教の許しの教えは有名だが、

世界の教会でそれが国とともに機能

しているとは言えない。

親や兄弟、恋人などが殺されて、その

犯人を許さずに責任を取らせるのが、

法治国家だからであるが、感情が

自己に結びついているのが僕らの

生の一般の状態なので、愛する人を

亡き者にされてそれを許すのは

自然な感情ではできない。



克服できないものを克服してしまう

のは、強制的な心だろう。それは

強さを超えて無謀になってしまう。

それでも後悔しようとしないだろう。

克服への恐怖は人を臆病にするか、

少しでも立ち向かおうとして、弱さ

を発揮して説得に向かうだろう。

信頼の輪を築こうとするのは、そう

いうタイプの人間だろう。突き進み

過ぎないでお互いの間で策を導こう

とする。

それは相手を真に理解しているか

どうかよりも、お互いの関係性を

大事にするので人の輪が広がり

やすい。

あまりに強い人も自分のエネルギー

が相手を押さえつけて、好きで自由

な意見を言わせなくしている。

そして、友人でもその中にいるので

気まずさや不愉快を受けるのを覚悟

して、意見を言う人は少ない。

コミュニケーションに失敗が多いと、

その強過ぎる人は臆病になりながら

もそのプライドは決して譲らないの

で、相手の意見など無視してしまう

のだ。彼は小さな輪を作るかもしれ

ないが、自分を理解することから

ますます遠くなるのだ。

そういう人でも相手を理解しないに

しても、気まずさを避けるためには

一般的・常識的なことを事務的に

述べることはできる。ただそれは

平板な意見なので、そのくり返し

が多いと聞いてる者は退屈するか、

耳を貸さないようになる。

そういう時に彼が関係を結ぶこと

が出来るのは、異性で、女性だろう。

男と女のそれぞれの違いが無理解と

なっている場合が多いせいか、その

壁が逆にお互いが小さな喧嘩を

くり返しても、お互いの足りない

部分をお互いに支える形ができ

上がるようだと、妙にしっくりくる。

理解できないことがお互いにはっきり

しているほうが、返って安心できる

利点が男と女にはあるようだ。

特に女性は子供を産む期間があるから、

その視点で男を考える・選ぶ伝統が

ある。

男と女のそういう関係について書こう

とすると、とても一人の経験が何人

あろうと、それ以上に別人の経験が

重要・必要になるから、恋愛から結婚

論まで書き終えることはできない

だろう。


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